石田明さんの証言  

石田さんは被爆教職員として広島平和教育研究所の創立と運営のために働いてきました。石田さんの体験は人々の心を深く打ち、世界中の人に核兵器廃絶の大切さを訴えてきました。


1945年8月6日。兄と私は八丁堀(爆心地より0.7キロ地点)の福屋の近くで路面電車に乗っているとき、凄まじい閃光に目がくらみました。その時何千ボルトの雷に打たれたように感じました。それから真っ暗になり、そして目にしたのは兄と私の上に覆い被さっている血まみれの死体でした。私たちはなんとか意識を取り戻し、死体を押しのけようとしました。路面電車からはなかなか出れず、真っ暗で自分の目の前もほとんど見えませんでした。

夜明けぐらいの明るさになるまで、大惨事が起こったことに気づきませんでした。広島市はすっかり様変わりし、家という家はあっという間に壊れていました。むこうがわに二葉山が見え、また建物の後ろにあった瀬戸内海の島も見えました。さっきまでたくさんの人がいたのに、ふと見渡すと人影がありませんでした。人々は炭のように真っ黒焦げになり、石のように硬くなってしまっているのです。それが人間の体とは信じられませんでした。それらはいくつにも積み重なり瓦礫の山に覆われていました。

私は呆然としながら逃げ出しました。それでもやはり、あまりに驚いて口もきけませんでした。200メートル先に川の土手があり、土手の石段ではじめて生きている人を見ました。その人は全身焼けただれていました。彼女は真っ赤に焼けただれた胸に乳をやるかのように赤ん坊をしっかり抱きしめていました。赤ん坊の名前を何度も何度も呼び、「死んじゃだめ。死なないで。」と叫びました。助けてあげたかったけど、火から逃れるため、そこから立ち去らざるを得ませんでした。

毎年8月6日が近づくとその母子を思い出し、その土手を通るとき無意識に手を合わせるのです。その後崩れた屋根を越え、京橋、猿猴通りを越え、なんとか逃げました。私たちのようにけがも火傷もない様子を見ると多くの人が「助けて!助けて!」と訴えました。間もなく付近は火の海となりました。壊れた屋根の下敷きになった人は生きたまま炎で焼かれました。急いでそこから逃げようとすると、女性が私の足をつかんで「お願い!子どもを助けて!」と叫びました。

燃え盛る炎の中を死ぬほど熱く感じながら、人々の助けを求める叫び声を振り切って逃げました。

その時屋根と瓦礫の下敷きとなって死んだ母子の叫び声は決して私の心から消えることはありません。

間もなく私たちは爆心地から1.9キロほどの広島駅に着きました。ひどい火傷をした人々があちこちから逃げる場所をさがしさまよいながら群れをなして熱さのあまりに泣き叫んでいました。服や着物はみな黒く焼け焦げ、皮膚はただれてまるでビニール袋のようにとけて体から垂れ下がっておりました。爆風で目玉が飛び出て目が見えなくなった子どももいました。その子は「かあちゃん、ぼくをどっかへつれてって!」と叫び、あてもなくよろよろと歩いた後、倒れ死にました。

夕方には私たちは広島駅の裏の東練兵場に着きました。空港のように広い練兵場にはものすごい数の火傷をした人やけがをした人が横たわっていました。焼け付くような日差しで気が遠くなっていましたが、次々と人が死んでいく様や「熱い!助けてくれ。」「水をくれ!水をくれ!」という悲痛な叫びは決して忘れないでしょう。

その夜私たちは戸坂駅に着きました。私はひどい吐き気がして倒れてしまいました。8月6日の夜遅く、知り合いが家に泊まらせてくれました。その家も火傷を負った人でいっぱいでした。私は夜通し吐き戻しうめいていました。

翌日やっといなかにある私たちの家に着きました。両親は私たちが無事に帰ってきたことをとても喜びました。しかし8月15日を過ぎて私は病気に冒されました。髪は抜け、唇はひび割れ、下血しました。その上全身に斑点まで現れました。このような状態になり、ラジオで終戦を伝える天皇の声明を聞くときも立ち上がることができませんでした。しかし、私はその声明を受け入れることはできませんでした。なぜなら日本は決して敗れることはなく、神風が勝利に導いてくれると信じていたからです。日本は敗けたのです。毎日毎晩私は血を吐きつづけました。
9月2日私よりもずっと調子のよかった兄が「父さんと母さんをたのむ。」と言い残し安らかに息をひきとりました。兄の体はだんだん冷たくなり亡くなりました。兄の葬式が済んでから私は意識を失いました。意識が戻ったときはすでに半年が過ぎていました。もう1946年2月末になっていました。だいぶ経ってから、母が置いた寝床のわきの丸い手鏡で自分を見ると、なにかがキラキラと光っていました。突然私は大声で母を呼び「母さん、髪の毛が生えた!」と叫びました。母は急いでやってきて私を抱きしめ「あんたは生き返ったんだよ!生き返ったんだよ!」と大喜びしました。私の命はずっと夜通しそばについてくれた母のおかげで生きながらえました。それから一年後私は赤ん坊のようによちよちと歩くことができるようになりました。私の人生は再び始まったのです。

戦争が終わって50年以上経ちました。この間に両目が病に冒されました。原爆のために白内障になり、目が見えなくなりました。最近、両目に人工のレンズを入れる手術をし、現在視力は回復しています。

何度も入院をし、現在なんとか生きています。私の第二の人生は1945年8月6日に始まったのです。かろうじて死から逃れることができました。生き残った者として、核兵器は人類を滅亡させると確信しています。ウランでつくられた爆弾により多くの人々の命が失われました。広島は原子砂漠に変わってしまいました。現在世界に2万発の原爆があるといわれています。もし核戦争が起こり原爆が投下されたら、地球は30分で滅亡してしまうでしょう。 

今私たちは軍人が単純なミスを犯したら、いつでもどこでも、この場でさえも爆弾が落ちる可能性があるという恐ろしい時代に生きているのです。私たちは爆弾や核兵器を廃絶しなければなりません。そうすれば核戦争は決して起こらないのです。

私は、戦争や核兵器のない平和な世界をつくっていく責任が皆さんにあると訴えたいと思います。そうすれば安心して暮らせるのです。平和な世界をつくりあげるまで1945年8月6日を決して忘れてはいけません。今私たちは広島の地獄を心に刻み付け、この悲劇は二度と繰り返さないと決心しなければなりません。私たちのさけび「ノーモア ヒロシマ、ノーモアナガサキ」を広めましょう。

最後に、私は残りの人生をヒロシマの生証人を決して絶やさないことに捧げると、次世代の皆さんに誓います。

2003年10月27日、石田明さんは「被爆者の責務」の信念を貫きながら病に倒れました。石田さんの思いを後世に残すため、広島県被爆教職員の会により石田さんの生涯を 講演映像を中心にまとめたビデオ(VHS・DVD)『未来を語りつづけて』が作成されています。