広島の平和教育が危機的状況にあるとの話が広島県内各地で語られている。文部省是正指導(1998年)をたてに広島県教育委員会が進めてきた教育政策により,広島の人権・平和教育が大きく後退していることに対する危機感の表れである。
広島平和教育研究所では,いま学校現場で平和教育の現状がどのようになっているのかを把握するために,「平和教育実態調査」を実施することとした。すでに,「平和教育推進態勢実態調査」は1982年と1997年に行っており,今回の調査と比較することで平和教育推進上の問題点と課題が明確になると考えた。
広島平和教育研究所は2004年6月,広島県内の公立小・中学校862校(分校も含む)に「平和教育実態調査」を依頼し,8月6日までに,304校(小学校218校,中学校校)から回答を得た。回収率は小学校が35.7%,中学校が34.1%,全体で35.3%であった。
これらの調査をもとに集計・分析を行い,特徴的な問題点や課題を次のようにまとめた。
1997年の調査では,95%の学校が平和教育に関する年間カリキュラムを作成していたが,今回の調査では23.7%に激減している。これは,1998年以後,文部省是正指導の名の下に行われた広島県教育委員会の教育政策に大きな原因があると思われる。作られていない理由は下記のとおりである。
文部省是正指導以前は,多くの学校で平和教育カリキュラム・人権教育カリキュラムの中に平和学習の内容を位置づけて実践していたが,文部省是正指導により「カリキュラムの見直し」,「組織の見直し」が行われた。しかし,結局は平和教育カリキュラムを作成していた組織もなくなり,平和教育カリキュラムも多くの学校からなくなっている。
カリキュラムが作られていない学校では,課題意識のある教職員が細々と実践せざるを得ない状況である。しかも,学年・学校体制で行われないため,系統性のない平和教育になっているといっても過言ではない。
年間カリキュラムがつくられていると答えた学校でも下記のような悩みが述べられている。
平和教育に関する年間カリキュラムを作成している学校のうち,約8割は,年間カリキュラムにそって実践し,検討・改善を行っているが,約2割は形骸化している。つまり,平和教育カリキュラムの検討・改善ができているのは全体の5分の1程度に過ぎなということである。75.0%の学校でカリキュラムがないことは深刻な問題である。
1997年の調査では,85.3%の学校で同和(人権)教育推進委員会や平和教育担当者を置き,組織的にとりくんでいたが,今回の調査では21.7%に激減している。とくに「人権教育推進委員会が中心となりすすめる」が,61.8%から7.6%に減っている。これは前述の文部省是正指導により「組織の見直し」が行われ,人権・平和教育を推進する組織がほとんどなくなったことを意味している。
平和教育を推進する組織や担当がなくなったということは,平和教育実践や研修が個人・学年任せとなり,教職員の意識しだいということになってしまう。このような状態では,教職員の戦争・原爆に対する認識は低下し,組織的・発展的に平和教育を推進することはできなくなる。
※1997年調査では,平和教育推進体制は何らかの形で存在しているだろうと考えられたため「推進態勢は作られていない」という選択肢はなかった。「推進態勢は作られていない」という回答が1997年にあったとすれば,無回答(0.6%),その他(16.8%)の中に入っていると考えられる。
平和教育推進上の悩みについて,115もの学校から回答があった。その中の主なものをあげると下記のようになる。
文部省是正指導を口実とした教育政策により平和教育のカリキュラムが破棄され,立案計画する組織もなくなり,わたしたちの先輩たちが積み上げてきた「ヒロシマの平和教育」が実践できないことに矛盾を感じ,憤りをもっていることが悲痛な声として伝わってくる。
「ヒロシマの平和教育」が実施できなくなった一例を挙げると,県東部のある小学校では,例年行っていた全校児童で千羽鶴を折り,「原爆の子の像」に捧げるとりくみが,管理職によってストップがかけられた。理由は「教育は中立でなくてはならない。子どもを運動(平和運動)に巻き込むことになる」というのである。
子どもたちは純粋に平和を願い,「二度と禎子さんのような悲劇をくり返してほしくない」と思って折り鶴を折ってきた。その思いを「中立」「運動」という言葉でつぶしてしまうことは,非教育的であり,被爆者の思いを踏みにじるものである。
いま平和教育の実践は,領域も内容も時間も制限され,多くの地域で個別的なとりくみになっており,系統性もなくなってきている。課題意識のある教職員が,厳しい管理・規制の中で創意工夫しながら細々と実践せざるを得ない状況なのである。
平和教育を充実していくためには,教科・総合学習・道徳・修学旅行などをとおして,創意工夫してどこでどのような内容を実践していくか,系統的なカリキュラムを作成し,組織的に推進していく必要がある。広島平和教育研究所としても平和教育の再構築に向けて,カリキュラム作成のための資料を作成していきたいと考えている。
平和学習をテーマとしたフィールドワークを実施している割合は,小学校ではほとんど変化はないが,中学校では大きく減少している。1997年度は52.7%だったが,今回は24.4%で半減している。これは「教科授業時間数の確保」を名目とした学校行事へのしわ寄せの影響があるものと思われる。
フィールドワークの主な行き先は,下記のとおりである。
〈小学校〉
〈中学校〉
行き先を1997年度と比較すると,大久野島の割合が大幅に減っている。大久野島の毒ガス遺跡は中学校教科書には掲載されているが,小学校教科書には掲載されていないこと,教科授業時間数の確保,毒ガス戦とその被害などの加害面や遺棄毒ガス弾の学習内容が規制されていることが影響しているのではないだろうか。
平和公園に行っている学校数はさほど変化がないと思われるが,平和公園・平和資料館に行くことさえ否定する校長がいるというコメントもあった。被爆者の思いを踏みにじるものであり言語道断である。
修学旅行の中に平和学習を位置づけている学校は,前回と比較すると,小学校は1997年度の19.7%から5.0%に,中学校は74.6%から47.7%と激減している。小学校の場合,前回の調査でも実施している割合は低かったが,今回さらに減っている。
小学校で実施している割合が低い主な理由は下記のとおりである。
小学校・中学校ともに激減した理由は,これまで修学旅行を人権・平和の視点で行き先や見学地を選定していた学校が,広島県教育委員会の教育政策(是正指導)により人権・平和の学習が否定されるようになったからである。
修学旅行の行き先は,小学校では長崎(50.6%→22.2%)が減り,京阪神(49.4%→77.8%)が増えている。これは阪神淡路大震災の影響により京阪神に行っていた学校が長崎に変更していたが,その後京阪神に戻したためだと考えられる。中学校では長崎が減り(52.0%→33.3%),沖縄が増えて(35.8%→59.0%)いる。飛行機の利用ができるようになったこと,自然や文化・平和の学習ができるという理由からであろう。学習の主な内容は,聞き取りや平和資料館の見学・フィールドワーク,平和集会などとなっている。沖縄は,平和学習が行える好適の地であり,聞き取りや基地・平和資料館の見学を組み入れたい。また,京阪神では京都の立命館大学国際平和ミュージアムや耳塚などを見学地に組み入れている小学校もある。どちらも社会科歴史学習に関連した内容であり,歴史学習を深める意味でもぜひ見学させたい。行き先が変わろうとも人権・平和意識をしっかりもって行き先や見学地を選定していきたいものである。
◎今年度,これまでに使用された視聴覚教材名(VTR・映画・スライド等)
内容別の割合をみると,小学校では,前回の調査と比べて,沖縄関連のものが減り,ヒロシマ関連のものが増えている。沖縄関連のものが減ったのは,1995年の米兵による少女暴行事件により沖縄への関心が高まったが,しだいに関心が薄れてきたためであろうか。中学校では大きな変化はないが,強制連行関連のものが減っている。
全体的に視聴覚教材の利用が減っているのは,平和集会で観ていたのが観られなくなったこと,教科授業時間数の確保,加害面の学習内容の否定が理由として考えられる。
地域にある戦争の跡(遺跡)・証言を教材化しているのは小学校では32.1%,中学校では12.8%となっている。1997年度と比較すると,小学校・中学校ともに減少しており,とくに中学校は半減している。
内容をみると,被爆体験,戦争体験,学童疎開,空襲(呉,福山,因島),毒ガス,向島捕虜収容所などの聞き取り,日清戦争記念碑・石碑調べなど多岐にわたっている。戦争体験世代は高齢化しており,地域に残る戦争の跡(遺跡・碑など)や体験を掘りおこし,教材化していくことは急務である。
また,聞き取りの内容や調べた内容を記録に残していくことも課題である。
地域的にみると,広島市内は50.9%,広島市外は21.5%と大きな格差がある。広島市は,被爆者からの聞き取りへの補助金,指導書の作成・配布など,被爆体験の継承に力を入れており,行政的に格差があることは残念でならない。
小・中学校とも原爆が投下された理由を「深く教えていない」が増えている。
また,小学校では,1997年度では「日本の侵略戦争の結果として落とされた」が32.6%と一番多かったが,今回は「戦争終結を早めるため」と「第二次世界大戦後,アメリカがソ連に対して軍事的優位に立つため」がともに17.0%となっている。
中学校は,前回同様「第二次世界大戦後,アメリカがソ連に対して軍事的優位に立つため」が44.0%と一番多くなっている。
無回答が今回大幅に増加している。平和教育が全体のものとなっていないため,授業内容に関連する質問に回答者が答えにくかったのではないかと想像される。
原爆投下目的についての社会科教科書記述はあいまいになりつつある。小学校教科書,中学校教科書の東京書籍には記述がないが,大阪書籍は「早期終戦説」と「対ソ戦略説」を併記している。教科書記述の簡略化,教職員の原爆認識の低下などの理由で,原爆投下目的が教えられなくなってきているものと思われる。
今日の核状況は冷戦時代よりも核使用の危機が増したともいわれている。このような状況を考えると,被爆の実相や原爆投下目的を明確にすることは重要な課題である。原爆投下目的については,「早期終戦説」「対ソ戦略説」「人体実験説」など複合的な要因が考えられるが,近年の研究をとおして「対ソ戦略説」が改めてクローズアップされてきている。原爆投下目的を教えることは,核兵器開発競争の起点や原爆投下の責任を明らかにすることになる。そのために,具体的な資料・教材を示し,研究・実践を深めていくことが大きな課題である。
児童会・生徒会主催の平和集会は,1997年度の62.7%から37.5%に大きく減少している。地域別にみると,広島市内は58.5%,広島市外は33.1%となっており,大きな格差が見られる。時期を見ると,8月6日を中心とする8月に実施している学校は約50校で6割程度である。平和集会を実施することにストップをかける管理職もおり,減っている原因の一つである。是正指導以前,多くの学校では子どもたちの自主的な活動として平和集会をもち,原爆だけでなく,加害面についても学習し,戦争をトータルにとらえ,平和について考えてきた。しかしながら,文部省是正指導により平和・人権に関する子どもたちの自主的な活動は制限され,戦争をトータルにとらえることもできず,戦争・原爆認識を低下させる方向に向かわされている。平和ということをどのように考え,どのような子どもたちを育てようとしているのかを議論し,再構築していく必要がある。
この質問項目は,今回新たに設けたものである。文部省是正指導以降の教育政策により平和教育が大きく後退していることに危機感をもったからである。
各学校から寄せられた声を上げてみると下記のようになる。
「平和教育が後退している」,と答えたのは実に約70.7%にものぼる。地域的にみると,広島市内が43.4%であるのに対して,広島市以外は76.5%であり,教育行政の姿勢のちがいが如実に表れている。また,校種別に見ると,小学校は66.5%,中学校は81.4%であり,中学校の方がより後退していることがわかる。教科授業時間数確保をより優先している中学校現場の現状が推察できる。
これらの結果から文部省是正指導を口実とした広島県教育委員会の教育政策が,平和教育を後退させていることは明らかである。
今回の実態調査で,広島県の平和教育が1998年以降大きく後退していることが明らかになった。来年は被爆60周年であるが,広島の平和教育は危機的な状況といわざるを得ない。
教育現場はほとんどが戦後世代となり,教科書から戦争・原爆記述が減少し,全国的に教職員や子どもの戦争・原爆認識は低下している。熊本県のある小学校では,「きもだめし」に被爆者の写真を使い問題となった。これは原爆認識が低下している一例であるが,教育行政は教師個人の問題として,このような問題をひきおこした背景や課題を明確にしていない。
わたしたちの先輩たちが,原爆の惨禍からたちあがり,原爆教育を始め,平和教育を全国化させていった。広島平和教育研究所は四半世紀にわたりその先導的役割を果たしてきた。平和教育の発展のために,研究活動に基づく副教材や教材資料集の作成・出版を積み重ねてきた。そして学校現場では研究活動や副教材をもとに実践し,実践の検証を行い,深化発展させてきた。このようにして「ヒロシマの平和教育」は,全国から注目されるようになった。
しかし,人権・平和を蔑ろにしようとする大きな流れの中で,文部省是正指導が行われ,平和教育は大きく後退している。教育行政は教科学力(点数の学力)を最優先し,人権・平和を大切にしようという姿勢が全く感じられない。このような現実の中で,どのような子どもたちが育つのだろうか。子どもたちの戦争・原爆認識が低下していることは想像に難くない。
私たちは閉塞感のある学校現場の中で,萎縮し自己規制をしていないだろうか。たしかにきびしい現状はあるが,子どもの姿や平和教育の現状を直視し,このような現状でいいのか,どのような子どもを育てていくのか,どのような平和教育を進めるのか(平和教育の必要性)を議論し,再構築していくことが大きな課題である。
今回の調査結果をもとに各学校において前向きに議論が行われることを期待したい。
◆文部省是正指導とは1998年文部省が広島県の教育を是正するよう指導したとされるものの総称。 是正指導の内容は教育内容に関するものから学校の管理運営に関するものと多岐にわたっているが,大きくは「日の丸・君が代問題」「主任手当拠出問題」「人権学習の内容」に分けることができる。 これから考えれば,文部省是正指導の本質は「日の丸・君が代問題」「教職員組合対策」「同和教育攻撃」にあったということができる。 この是正指導により,「日の丸・君が代」の強制が行われ,組合活動に対する妨害,執拗な同和教育つぶしが行われた。 「平和教育」の内容は文部省是正指導の中に含まれていないが,「人権学習の内容」と「平和教育の内容」に関連があり,「人権教育(同和教育)つぶし」の中で平和教育否定が進んできていると考えられる。 広島の平和教育の後退は広島県教育委員会の「広島県教育資料」(広島県の教育の方針を示したもの)を比較すればよく分かる。 是正指導以前の「広島県教育資料」によれば,「過去において,我が国の行為がアジア近隣諸国の人々に,多大な苦痛と損害を与えたことを深く自覚し,平和の意義について一層認識を深める」とあり,8月6日の取り扱いにも「原爆投下にいたった歴史や投下の目的について指導する必要がある」と2ページ(A4)に記載されていたが,是正指導以降の記載は1ページとなり,内容も「社会運動や政治運動との関係を明確に区別し,教育の中立性を確保する」等,規制を全面に押し出した内容となっている。 是正指導の根拠となったといわれる「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」の52条は,1999年7月の地方分権一括法による地教行法の改正により,削除された。 また,文部省への報告期間とされた3年間もすでに過ぎ去っている。 |